軍国主義者・白石麻衣の卒業に関し、1月7日と9月22日、アグネス(周庭)がつぶやきました💛
アグネスは欅坂の“不協和音”も大好きです💛
初めに、乃木神社で成人式を行った軍国主義分子たちの名前を読み上げます。
2013年 白石麻衣、衛藤美彩、橋本奈々未、松村沙友理
2014年 高山一実、秋元真夏、斉藤優里、伊藤かりん、西川七海
2015年 西野七瀬、中田花奈、永島聖羅、井上小百合、桜井玲香、能條愛未、若月佑美
2016年 生駒里奈、伊藤万理華、川村真洋
2017年 生田絵梨花、北野日奈子、斎藤ちはる、中元日芽香、堀未央奈
2018年 佐藤楓、樋口日奈、川後陽菜、相楽伊織、星野みなみ、山崎怜奈
2019年 齋藤飛鳥、寺田蘭世、梅澤美波、伊藤純奈、鈴木絢音、佐々木琴子、田村真佑。欠席=和田まあや
2020年 山下美月、渡辺みり愛、大園桃子、向井葉月
今年は感染症の影響で成人式は中止となりました。与田祐希と早川聖来は乃木神社に絵馬を奉納しました。
乃木神社は、悪名高き軍国主義分子・乃木希典を祭っている神社です。
以下の文章は、环球时报(環球時報)を和訳して写真を加えたものです。文章の内容は中国共産党の見解です。その内容に賛成するか反対するかは視聴者が決めることです。最も大切なことは、自分の頭で考えることです。
この動画は、皆さんが自分の頭で考えるための資料として提供します。
【興亜観音は戦犯大本営】
日本中どこにでもある神社は日本神道の重要な宗教的場所です。祭日には、多くの日本人が神社に参拝祈福します。日本の政治家の靖国神社参拝はアジア諸国の神経を逆なでします。 A級戦犯14人を含む第二次世界大戦の多くの戦犯が靖国神社に祭られているからです。A級戦犯14人のうちの7人は死刑判決を受けました。
死刑になった7戦犯を祭る施設は、靖国神社だけではありません。静岡県熱海市伊豆山(いずさん)に、興亜観音というお寺があります。そこには、東條英機を含む7戦犯の位牌、記念碑、骨灰が祭られています。
1948年12月23日、東條英機らが絞首刑にされた後、遺体はすぐに火葬されました。7戦犯の骨灰の大半は米軍機が太平洋に撒きました。最近発見された米軍の文書も、そのことを裏づけています。
では、なぜ、興亜観音に戦犯の骨灰があるのでしょうか?
話は1948年11月12日に遡ります。極東国際軍事法廷は東條英機らに死刑を宣告しました。死刑判決を受けた戦犯の家族は、処刑後に遺体を引き取りたいと望みました。しかし、連合軍最高司令官マッカーサーの許可は得られませんでした。日本の元首相でA級戦犯 小磯國昭の弁護人 三文字正平は、米国人弁護士からそのことを聞かされました。それでも、三文字正平は戦犯の遺骨を家族に引き渡そうと決めました。
三文字正平はそのために極東国際軍事法廷の米国検察官を訪ね、そこで重要な情報を聞き出しました。執行日はクリスマス前、場所は巣鴨拘置所、火葬は横浜市久保山火葬場です。三文字正平は直ちに久保山に向かい、久保山興禅寺の住職 市川伊雄(いゆう)に密かに話を持ちかけ、助けを求め、さらに久保山火葬場の場長 飛田善美を説得し、3人は秘密裏に計画を練りました。
12月23日早朝、東條英機ら7人の戦犯が処刑されました。午前7時、久保山火葬場に7人の遺体が運ばれました。飛田善美は米軍の監視下で7人の遺体を火葬し、その骨灰を7つの骨灰壇に納めました。しかし、飛田善美は骨灰のすべては入れず、わざと少し残しました。しかし、飛田はこっそりと7人のために香を焚いたため、米軍に見つかり、線香(と骨灰)はすべて没収されました。
それでも、米軍は飛田の小さな動作には気がつきませんでした。米軍は7つの骨灰壇の箱を運び出しました。細かい骨灰は1つにまとめて火葬場のコンクリート穴に遺棄しました。米軍が去った後、飛田善美はすぐに三文字正平に連絡しました。
25日の深夜、三文字正平、飛田善美、市川伊雄が黒い外套に身を包み、真っ暗な火葬場に忍び込みました。3人は飛田の合図でコンクリート穴に集まり、穴の底にある骨灰の山の中から細く砕かれた骨灰までも集め、竹の棒で結ばれた壺で釣り上げました。
密かに運ばれた骨灰は初め、久保山の興善寺に保管されていましたが、翌年5月に熱海市伊豆山(いずさん)の興亜観音に移されました。この興観観音の起源もいわくつきです。
“興亜”の二字は、明治維新後、日本が戦争で負けるまで、日本の軍国主義や植民地主義の機関で多用されました。たとえば、1938年に、日本の近衛内閣は、“興亜院”という機関を設立し、対中侵略戦争の間、占領した中国領土における日常政務と物資略奪などの事項を管理しました。よって、興亜観音の名は、単なる仏教寺院を意味しません。
中国人が激怒する理由はそれだけではありません。興亜観音は1940年、対中侵略戦争で亡くなった日本兵を祭るため、7戦犯の1人であり、南京大虐殺の犯人であった松井石根が建てました。興亜観音の観音像は、松井石根の強い意思によって、南京周辺の土を集めて作られました。
1940年2月24日にお寺が完成した後、松井石根は近くに庵を建て、毎朝山を登って観音を拝みました。そのような殺人狂人魔の恥ずべき行為が許されることはありません。
7戦犯の骨灰は興亜観音に送られましたが、日本の右翼分子は第二次世界大戦後も堂々と祭祀活動を行うことを控え、住職 伊丹忍礼は“時機が来る”のを待つことにし、骨灰の存在を隠し通しました。
興亜観音は“時機が来る”まで骨灰を秘匿しました。1959年、お寺の中に吉田茂元首相筆の“七士之碑”が建てられ、骨灰は石碑の下に埋葬されました。
1960年、愛知県幡豆町(はずちょう=今の西尾市)の三ケ根山(さんがねさん)に“殉国七士墓”が建てられました。 7戦犯の骨灰の一部が興亜観音から分骨されました。よって、7戦犯の骨灰は2か所に埋葬されていることになります。
米国は当初、7人の墓地が日本の軍国主義分子の“聖地”になることをおそれ、その骨灰を太平洋に撒きました。しかし、右翼分子による悪あがきによって、米国の目的は達成されませんでした。
戦後、各国の軍事法廷で戦犯が裁かれ、処刑されました。興亜観音に祭られる戦犯は次第に増えました。現在、7人のA級戦犯と901人のBC級戦犯が祭られています。他にも、軍事法廷で死刑にはならなかったが、刑務所で死亡した160人のABC級戦犯が祭られています。合計1,068人です。このように戦犯が集められたことから、“もうひとつの靖国”といわれています。
そのような場所は当然日本の左翼の標的となります。1971年12月12日、日本の無政府主義組織“東アジア反日武装戦線”の3人のメンバーが自作の爆弾を持って興亜観音に忍び込み、“七士之碑”、観音像、(一〇六八柱)供養碑を爆破しようとしました。“七士之碑”は破壊されましたが、観音像は不発で、(一〇六八柱)供養碑は爆弾威力の問題で、破壊を免れました。“七士之碑”は後に修復されました。
このような事件の歴史から、戦後の日本では軍国主義思想が完全に清算されていないことがはっきりとわかります。今でも、日本右翼の急進派は、血まみれの戦犯を“国家英雄”と考えています。このような事件と、日本の右翼政治家による靖国神社への頻繁な参拝は、根本原因を同じくする一連のものと考えられます。
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また次の動画でお会いしましょう。
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